「この内容については、私は了承できません。こんなこと、理事長の一存で決められることではない。異議を申し立てるためにC技研のH林氏とW氏に連絡を入れていますが、つかまりません。」
K山理事長は、慌てふためいて妻に連絡してきたらしい。
しかし彼らの対応は、しごく素っ気ない。
「理事会としては、その補償話はお断りしておりますので、問題はありません。今回送られてきた書面の内容については、K山理事長個人とC技研のことと考えておりますので、ご対応はご自身でお願いします。」
I子さん、Y子さんと連絡を取り、そのように確認したそうだ。
「この件ですが、I子さんと私が反対したのにもかかわらず、11月にK山理事長がB建築設計との面談を強行されたことに端を発しています。また、K山理事長が早めにC技研に連絡を入れて、図面を提出してほしい旨をお伝えくださっていれば、このようなことにはならなかっただろうと、残念に思っています。」
今までの恨みを、妻はここぞとばかりに晴らそうとしているようだ。しかし、K山理事長に任せてしまって、大丈夫なのだろうか。
「C技研の書面のこと?」
妻は意地悪そうに微笑む。
「あれさ、本当に弁護士さんが書いたもんやと思ってる?」
確かに、漢字の書き間違いや言葉の重複など、丁寧ではあるが、全体として、いささか稚拙な印象は拭えないものだった。
「賭けてもいい。あれは弁護士さんが書いたもんやない。あたしたちとしてはこの話は断ってるし、図面のことは契約書にもちゃんと書かれている。つまりC技研としては図面を提出するしかないけど、そうはしたくないから、打つ手がない。で、『理事長の同意した手打ち話』にしがみついてるだけ。こっちが有利な立場にあるってことが、この書面から、逆に読みとれる。」
それなら理事長にもそう伝えて、安心させてやればいいのに?
「あたし、そこまで親切やないもんねっ。」
まったく、性質のわるいヤツだ。
「それより、明日はI田弁護士との面談やし、手続きのことやら、いろいろ聞いてくる。」
先日のI田弁護士より連絡があり、妻が事務所を訪れる約束ができていた。
「弁護士事務所って、どんなとこなんやろ。」
妻としても、弁護士事務所に出向くなんて初めての経験で、気持ちがいささか高揚しているようだ。
そして翌晩。例によってビール片手の報告だ。
「仕様書の『完成時に引き渡すべき図面』に記載されていた『躯体補修図』やけど、これって、正式に定まった呼び方ではないらしい。せやからI田先生は、建築士のお友達に連絡して尋ねてみてくれはってんて。わかったこととしては、『躯体補修図』とは『補修後、目視調査をして立体図に描き込んだもの』、つまり、問題になっている『未提出のタイルの補修図』を指しているってことがはっきりしたって。」
ということは、仕様書に書かれていた「躯体補修図」なるものが、未提出の「タイルの図面」を指しているのかどうか明らかでない状態で、今まで話を進めていたってことなのか?
「いや、そうでもないけど…。そうやろな、とはわかってたけどさ、でも、弁護士さんとしたら、きちんとさせないと進められへんのとちゃう?」
まあ、それはいいとして、そんなことを伝えるために、I田弁護士は、わざわざ事務所に呼び出したのか?
「ちゃうってば、ここからが肝心。先生の意見やけど、契約書に書かれている以上、『絶対出さんなあかんもん』なんやって。」
つまり、妻たちの考えが、法的にも裏付けられたってことか。
「そう。この図面がないことの不利益も、いろいろ考えてくれてはった。『請求書の金額が確認できない』とか、『きちんと補修作業がなされていたか、確認できない』とか。あと『タイルの歩留まりが確認できないのも困る』ってことも。つまり、13年でどれだけのタイルがダメになったかってことやね。」
しかしそういったことについても、今までに確認はできていたと思うんだが。
「まあね。でも、弁護士さんがはっきり言ってくれたってのは大きいよ。不利益が明らかやから、そうしたかったら、訴訟にも持ち込めるし。それに『裁判や調停に絶対はないので断言はできませんが、出させるべきとの印象が強いですね』って。似たようなケースの判例も調べておいてくれはった。」
なるほど、弁護士の先生はそのようにコトを進めていくのか。
「それからさ、契約書の約款のところに『受注者は、発注者にこの契約の目的物及び契約上引き渡すべき図書を引き渡し、同時に、発注者は受注者に請負代金の支払いを完了する。』って書かれてるの、これさぁ、同時履行って言って、『代金と引き換えに、図面も引き渡たさんなあかんかった』ってこと。つまり、図面がなかったんやったら、代金は支払う必要がなかったってことやねんて。同時履行の抗弁権って言うらしい。」
ヤツはそこで息をつぎ、
「同時履行の抗弁権!」
と、意味もなく繰り返す。この単語を、意味を解した上で発音できる自分を、少なからず得意に感じているらしい。
「つまりさぁ、図面がなかったならC技研に代金を支払う必要はなかった…ってだけでなく、監理にあたったB建築設計やS社にも問題があったってことになる。監理の責任やけど、『図面管理の不備についてのお詫び』なんかですませられるもんやない。代金を支払うのを止めなかったことへの賠償も考えられるんやないかな。」
妻はまた、新たな可能性を見付けてしまったようだ。
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