伊豆、多々戸浜…
どこまでも透明な水。
海面を走るサーフボードから、逃げるように泳ぐ魚の姿も確認できます。
なんとなく気配を感じ、海から一望の駐車場を振り返ると、愛車シボレーのもとに帰還するサーファーの後ろ姿。シャボン玉女の弾けるような笑顔が見えます。
さすが真っ赤な高級車と美女を操る男、逆三角形の締まった身体が遠くからも見てとれます。
イケメンの類いであることは、女のレベルから考えても確実です。
体たらくなおっさん集団と、何から何までの違いを見せつけたシボレー男とシャボン玉女は、その後、夕日で茜色に染まり始めた海を後にしました。
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サーフ仲間で旅行といえば、いい波、うまい酒、うまい飯。
いい宿は条件に入りません。
今宵の宿泊先、ひとり3800円。
古いアパートに無理やりトロピカルな塗装を施したような貸別荘。
シャワートイレの有無を尋ねるなど愚の骨頂、せんべい布団、かび臭、1ヶ所しかない温泉風呂(混浴?)という、まぁ、予想を裏切らない誠実な宿です。
片道一車線の山の中腹、270度の危険すぎるカーブを曲がると、少し開けた空間にトロピカル風ボロ、もとい、貸別荘が現れます。
すると、駐車場に見慣れた車が__
目を疑いました。
なんと、あのシボレーが停まっているのです。
大衆宿の前に停まる真っ赤な高級車は、吉野家に訪れた叶姉妹のように、場違いな存在そのものです。リゾートマンションなど星の数ほどある観光地において、なぜ同じ宿にあの車が停まっているのか…道でも間違えたのかな、と思いました。
荷物をおろし、チェックインのためにフロント棟へ行こうとしたその時、薄暗い階段の最上段に突如現る白い影___真っ白なワンピースをまとった女。
シャボン玉女です。
その様、夜闇に浮き出た般若のごとし。
私たちの存在に気づいたシャボン玉女の瞳は、私たち以上の驚きで、一瞬、カッと見開かれ、即座に顔を伏せると、ものすごいスピードで階段をかけ降り、シボレーとは反対の方向へ駆け出していきました。
その5秒後、最上段に現れたは、シボレー男。
負けレースに全財産を投じたかのような悲痛な表情の色男。私たちの存在に気づく余裕もなく、シャボン玉女を猛烈な勢いで追いかけていきました。
以後、その宿に決して戻ることのなかった赤いシボレー…
___その夜、私たちは語ったのです。
あと1万円、その金があればリゾートホテルに泊まれた。
そしたらこのよう悲劇はなかったろうに…
真っ赤な高級車、雲ひとつない青空、エメラルド色の海、真っ白な砂浜、イケメンの彼、彼を待つ美女、ビーチベッド、新調した水着、純白のワンピース、サングラス、シャボン玉…
宿泊…トロピカル風ボロ宿
勝負の時__
この時だけは、必要な投資を躊躇せず注ぎ込む。これ無くして人生に成功はありません。
勝負の時は、人生にそう何度もあるわけではないのです。
急速にしぼんだであろう、シボレー男の期待と股間を思うと、たったひとつのボタンのかけ間違えで、天国から一変、地獄に叩き込まれるマネーの恐怖を考えずにはいられませんでした。
その夜。
我々にとって最高の宿で、今日の出来事を酒の肴に酌み交わしたビールの味は、とにもかくにも、すこぶる美味しかったのです。