そして一方、「図面が提出されないのはイヤだ」と主張したY子さん。口に出したからには行動に移す彼女は、独自のツテをたどって、相談に乗ってくれる建築士を探し出してきた。
Y子さんの知人、一級建築士N川さんは、その禿頭が一瞬虚を衝くも、小柄で大きな目の、親しみやすい風貌の持ち主だったそうだ。彼が言うには、補修の図面とは、「今回、どこを補修したのかを示すカルテのようなもの」らしい。
「今後、別のお医者さんにかかることになっても、このカルテさえあれば大丈夫。逆に言うと、図面がないと、手探りでしか進められないことになりますね。」
僕たちのマンションにほど近い雑居ビルの一室に、N川さんは事務所を構えていた。「すごくセンスのいい書斎」のようなその事務所で、彼の即席のレクチャーを受けた妻たちは、「(施工時の)図面は無くてはならない重要なもの」との確信を強めたようだった。
つまり、図面が無いと「今回の工事費の正当性の確認ができない」「次回の大規模修繕の時にも必要になる」との、彼女らの考えが裏付けられたのだという。
そして今後の図面の提出の見込みについて、N川さんは次のように語ったという。
「たとえ完成した図面が提出されていなかったとしても、工事の途中の段階で図面を作成せずに進めていたはずはないのです。図面は設計図であり指示書なのだから。」
取り寄せていた仕様書に記されている「躯体劣化図」「野帳(途中の段階のメモ)」などの用語は、そういった途中段階の図面を指すらしい。他にも、「施工図にクラック・曝裂部等を明記し、保存すること」「施工図に記入し、施工前と施工後を監督員に提出確認を受けること」などの記載も確認された。
「補修後の図面が無かったとしても、補修前の点検の図面には、『ここが悪くなっているので、直す必要がありますよ』とチェックが入れられていたはずなんです。正しく施工が行われていれば、『要修理』の場所がすなわち『修理済』になるわけですから、こういったものから復元は可能です。」
N川さんの見解は、しごく明快だったそうだ。
「どうしても出せないというなら、『出せないわけ』を勘ぐってしまいますね。工事をきちんと行っていなかったとか、工事費の水増しだとか。」
理解が進めば進むほど、「図面の提出」は絶対に譲れない線だとの、ヤツらの確信は強まっていったらしい。また逆に、こちらに知識がないのをいいことに、図面の提出はしないまま、「総タイルの保証」で丸め込もうとしていたC技研と、その話を仲介してきたB建築設計の悪質ぶりも、呑み込めてきたそうだ。
「やっぱり、図面は出してもらう必要がありますね。いざとなったら、足場を掛け直してでも作り直してもらいましょうよ。」
N川さんの話に、Y子さんは勢いづく。
工事の完了から一年もたたない今の時点なら、修繕したタイルについて、目視でも、ある程度の確認ができるらしいのだ。しかし、仕様書の最後につけられていた見積もり表では、足場の設置の費用としては1000万円余りの金額が計上されていた。
「それはちょっと、交渉が難しいのではないかな?」
と、しぶる妻。
「でも、あちらには提出の義務があるんですよ。なんなら、ほかの会社に依頼して、費用を請求するのはどうでしょう。」
いつもながら、Y子さんは引き下がらない。
「それはとにかく、」
と、N川さんは続けたそうだ。
「こういったケースでは、管理会社はなかなか親身になって対応はしてくれません。C建設とマンション管理組合が、管理会社を介さず契約していることを考えると、直接交渉することをお勧めします。水増し請求などの可能性があるなら、資料が処分される前に確保した方がいい。」
折も折、T青年から妻にあてて、
「次回理事会にC技建に出席いただく件ですが、交渉いたしましたが、どうしてもスケジュールが合わないとの回答がありました。」とのメールが届いていた。
「この件は基本的に、あちらの不備を問いただす案件であり、『来ていただく』のではなく、『呼んでいる』との状況であることをご認識ください。」
強気に返信はしたものの、おそらく次回理事会へのT技研の出席はないだろう。N川さんのアドバイスを念頭に、妻たちはC技研との直接のコンタクトを決めたらしい。
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