今回の理事会では、住民も加えて話し合わなければいけないような議事内容は扱われない。なので、あえての参加は呼びかけられていなかったが、それでも、僕を含め数名が、オブザーバーとして出席している。「図面の未提出」は大きな問題ではあるが、それでもこれをきっかけに、管理組合が「顔の見える」組織になってきた。妻よ、これは少なからぬ成果ではないか。
「弁護士さんは、『図面が提出されていないのはおかしい』とおっしゃっていました。これについては、提出させる手続きを調べていただいているところです。」
理事会の席で、妻はI田弁護士との相談内容を報告する。無料の法律相談を利用していることはあえて明かさない。さも昵懇の弁護士を味方に付けている風をK青年に見せつけ、管理会社を通して、各社にプレッシャーを与えようとの作戦らしい。Nさんが仕入れてきた費用についての情報にもさりげなく触れた上で、次のように提案する。
「とりあえず、来期の予算には弁護士の費用を計上し、交渉を進めていくのでいかがでしょうか。」
「あの、すみません。」
しばらく前から、何か言いたげな顔をしていたK山理事長が、ここでやっと発言の機会を得た。
「弁護士依頼を決定した時点で、私は…、理事長を辞任させていただきます。」
突然の申し出に、皆がざわめいた。
「そんなん、無責任やないですか!」
Uさんが声を上げる。12階に住む年配の女性だ。お年寄りの中には「難しいことはわからへん。」と参加を渋る方もいたことから、妻はあまり期待せずにUさんに声をかけたらしいのだが、先日の集まりにも参加し、積極的に発言してくれるコアメンバーの一人になっている。
しかしK山理事長は聞く耳を持たない。
「弁護士への依頼を正式に決定するということは、訴訟を視野に入れているということですよね。私が理事長である限りは、訴訟沙汰なんて絶対にイヤなんです。」
「いきなり訴訟だなんて、考えていません!」
妻が答えた。
I子さんやY子さんも、口々に言う。
「誰だって、訴訟なんてしたくありません。」
「私たちが今考えているのは、弁護士さんにお願いして交渉にあたっていただくところまでです。最終的には訴訟になることもあり得るでしょうが、その前に、調停などの解決方法もありますし。」
しぶしぶ…という様子で、K山理事長は口をつぐむ。
話し合いは続く。
C技研に対しては、I田弁護士からの返事を待って、「図面の提出」を働き掛けることに決まった。ちなみに、理事会の持たれたこの時点では、C技研からの書面は、まだ届けられていない。
「ってことは、C技研側には打つ手がないんやと思います。」
妻が言う。
「1月にあたしが電話でお話した時、Wさんは、『今後は弁護士さんを通じて連絡する』って言ってました。でも、その次のお電話では『K山理事長も承知しているのか、確認したい』って。つまり、理事長が手打ち話に同意してるって前提で交渉を進めるつもりだったけれど、実のところ、その確証はない状態やったんやと思います。で、先日のK山理事長の署名入りの書面で、その前提自体も崩れてしまって、もう動きが取れなくなってるんでしょう。」
おいおい、そうはっきりと言い切って、大丈夫なのか。しかしヤツは、妙に自信ありげに断言する。
「もしも弁護士から有効な助言を得てるんやったら、ずっと前に返事が来ているはずです。ここまで催促しても返事がないってこと自体、相手の手詰まりを表しています。」
そこまで相手の出方を読んで、マンションからの書面を急いでいたというのか。わが妻ながら、少し怖くなってきた。ともかくこの場は、ヤツの「読み」に従って、話を進める。
「できればK山理事長からC技研に連絡を入れて、図面の提出と書面への回答を促していただきたいのですが…。」
「それはしたくありません。」
K山理事長は、そっけなく返答する。
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